初代天守

豊臣大坂城のものと見られている平面図「本丸図」では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。

天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。

天守は、複合式若しくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦などに施された金を目立たせたと考えられている。

一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。

立説には、大坂夏の陣図屏風、大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。

特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も研究者などから出されている。

黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルにもなっている。
update:2010年02月26日